ジャンプ岡部と齋藤(長野前)2014/03/15 01:01

岡部孝信が引退を表明した。引退会見の席にチームの監督として同席した齋藤浩哉。同年齢の2人の少年団時代からのライバル関係はよく知られている。岡部は下川、斉藤は余市。全中は斉藤が、高校総体は岡部が制した。▼社会人ははじめ別々のチームだった。年下の東輝や葛西紀明らが話題を呼んでいたが若きジャンプ群像の注目を集める存在だった。2人の切磋琢磨は続いた。▼社会人初優勝は岡部が91年、先に達成(UHB杯)。今で言えばコンチネンタルカップにあたる環太平洋カップなど海外遠征にも選ばれるが「海外W杯」デビューは斉藤の方が先だった。初優勝はしたものの岡部はケガに泣いた。▼ヒザのじん帯を痛め早く引退することとなる斉藤だが、岡部もまたケガとも戦うジャンプ人生だった。93年、プチ復活。海外W杯デビューは斉藤に先を越された岡部だったが、この年、初の世界選手権代表となる。翌94年がリレハンメル五輪。岡部、斉藤揃って代表になる。▼ともに代表入りした94リレハンメルだったが、斉藤は出場機会なし。岡部はあの「二番」のハチマキをすることとなる団体で銀メダルを獲得(西方、岡部、葛西、原田)。個人でもラージ日本勢過去最高タイの4位となった。▼リレハンメルの翌年。カナダのサンダーベイ世界選手権。リレハンメルの影響かリーダー格の原田は極端な不振。24歳の岡部と斉藤がダブルエースの形だった。五輪では出番のなかった斉藤だったが団体銅メダルに貢献。個人では銀メダル(N)に輝く。ただこのときの金は岡部だった。▼サンダーベイで金メダルを獲得した1995年、岡部が所属していたたくぎんの廃部が決まる。桜井仁、及川貴生は東洋実業へ、そして、岡部は斉藤のいる雪印所属となる。1996年、子どもの頃からのライバルは同じチームで高め合うことになる。▼岡部、斉藤が国際舞台へデビューしその存在を示しはじめた頃の日本ジャンプチームには豊富なタレントが揃っていた。V字スタイルへの移行、冬季五輪自国開催決定。そうした中で若い才能が競い合い世界最強チームへと、日の出<ライジングサン>の勢いだった。▼91世界選手権1回目1位の東和弘。双子の弟の昭広。92五輪ラージヒル過去最高の4位に入り93年には笠谷幸生以来の世界チャンピオンとなる原田雅彦。葛西紀明が19歳でW杯初優勝。スキー王国小樽出身須田健仁。五輪代表は逃したが竹内元康。竹内卓哉。W杯含む大倉山5連勝の東輝。西方仁也、葦本祐二、安崎直幹、桜井仁、野呂田義一らがしのぎを削る。▼96/97シーズン斉藤はW杯開幕から14戦連続でベスト10以内。プレ五輪を兼ねた白馬大会で連続ベスト10以内は途切れるが直後、2月2日ドイツのビリンゲンでW杯優勝を果たす。岡部もこの年、W杯シーズン2勝、通算3勝目をあげる。しかし、翌五輪季に思わぬ不振が待っていた。

ヒーローたちの名勝負2014/03/19 02:43

NHKで土曜の夜に放送している同名の番組。1月11日はスキージャンプの岡部孝信だった。放送の当時、「ああ」と贔屓の選手に突きつけられた現実を思い、ため息を飲み込んだのを思いだす。放送日の4日前、1月7日。ソチ五輪のジャンプ代表が発表された。その中に岡部の名はなかった。年末年始のジャンプ週間に招集された岡部。いわば五輪メンバー採用試験、そのラストチャンスだった伝統の大会で代表選出の条件を満たすことができなかった。◆シーズンインの段階で岡部の五輪代表入りは厳しい状況だった。それでもサマージャンプでFISのポイントをとり、国内スタートとなった開幕戦で優勝してみせた。滑り込みで、「逆転代表入りへ」、少ないかもしれないが「チャンスはある」と不屈の精神で挑んでいた。そんな岡部の代表入りを祈るような気持ちで声援を送る人は多かった。もしかしたらこの番組の制作者も岡部の代表入りを願って、取材し、代表発表の日の近くでの放送を考えていたのだろうか・・・と。◆金メダルを引き寄せたあのジャンプ。原田を救い、日本を救った。大スランプの中から大一番でみせた「逆転の大ジャンプ」。長野後も不利なルール変更にも挫けず復活してみせ、エースとして2006トリノに臨み、更に当時のW杯世界最年長優勝を含むシーズン10勝を上げた2008/2009季。そして日本選手団主将を勤めた2010バンクーバーと年齢を重ねても進化を続けた。腰痛などとも戦いながら、ソチも代表争いに食い込んでみせた。岡部が、そして岡部のジャンプ人生そのものが、私にとってはヒーローであり、まさに名勝負の連続だった。◆我がスキージャンプヒーロー、岡部孝信選手のラスト飛行は3月22日、札幌・大倉山で行われる伊藤杯シーズンファイナル。「コーチの話を受けたあとも変わらずトレーニングを続けている。22日も優勝を目指す」と話した岡部孝信。その勇士をまぶたに焼き付けよう。