坂井義則さんと出雲駅伝2014/10/14 01:02

今年9月に他界した坂井義則さん。1964年の東京五輪聖火ランナーだった坂井さんは早稲田大学卒業後、フジテレビに進み、スポーツメディアの発展に多大な貢献をされました。■1982年に始まった東京マラソン(東京-ニューヨーク友好東京国際マラソン)、広島で行われた1985年マラソンワールドカップの翌年に行われたIAAF国際駅伝、瀬古さん引退の花道ともなった1988年スタートの国際千葉駅伝。NHK、民放が一体となった1964年東京五輪を除けば、それまで民放が生中継することが殆どなかったマラソン、駅伝の分野の番組の誕生と発展に重要な役割を担いました。■出雲駅伝もそうです。当初、駅伝という名称も襷の使用も許されなかった大会が今日のように駅伝開幕戦、学生三大駅伝として、発展するまでに辛酸をなめるようるな思いを何度もされてきたことだと想像します。■駅伝やマラソンの中継はテレビ技術の博覧会のようなものです。どう電波をつないでいくか、どんな映像、音を表現していくのか、制作者も出演者、コメンタリーも「筋書きのないドラマ」を見逃さず、組み上げていくか。スポーツですから予測できないことも起きます。競技の展開だけではなく、事象の進行などもいくつもケースを想定し、何日もかけて準備もします。その中には危機管理についてのものもあります。■高橋尚子さんが2時間20分を突破し世界最高を樹立した2001年のベルリンマラソンもフジテレビが中継しましたが、ベルリン入りする前、トランジットで降り立ったパリ、ドゴール空港で当地の苦い思い出を口にされていました。1990年、電波を中継するヘリが濃霧で飛ばないという事態に陥ったときのことです。そのときの経験から「Bプラン」といわれる実際には日の目を見ない中継計画がつくられるようになりました。■偶然にも翌2002年のベルリンマラソンは濃霧のためヘリが飛びませんでした。ドイツの放送局の全ての映像がカラーバーと呼ばれる信号画面。マラソンの映像が一切上がってこない中、(ところどころ不調な箇所はありましたが)高橋尚子を撮影するためフジテレビが投じた1台のカメラの映像だけはLIVEを映し出していました。■今年、出雲駅伝は台風の影響で中止になりました。テレビスタッフは嵐の中でも中継を実施する体制は整えていたことでしょう。何日もかけて。テレビスタッフだけではありません。大会に携わる人たち。そして選手たちも。この日のためにあらゆるケースを想定して臨んでいたはずです。伊勢も、箱根もない選手もいます。■それでも、参加する選手や運営に関わる係員、沿道の人たちに危険が及ぶ怖れがあれば中止もやむをえなかったでしょう。見守っていてくれる、きっと台風は避けてゆくだろうという願いは叶いませんでした。ただ、困難や試練、アクシデントに直面したとき、何をなすべきか・・・とても大事なことを考えさせてくれたのかもしれません。▶テニヲハ、誤字脱字、一部文言、直しました。【画像は2008年プログラムと制作資料の表紙】

藍&さくら、そして菊地絵理香2014/10/19 02:00

2003年、当時、東北高校3年の宮里藍は三重・桑名で行われた日本女子アマ選手権でメダリスト(ストロークプレートップ)からマッチも勝ち抜き優勝を果たす。当時、千歳向陽台中学3年だった菊地絵理香もその大会に出場していた。初出場でベスト4の快進撃だった。■2003年は女子ゴルフ界にアマチュア旋風が吹いていた。その中心が宮里藍であり、横峯さくらだった。その年のアマNO.1を決める日本女子アマも2人に注目が集まっていた。中3の菊地はベスト4まで進んだが古屋京子に敗れ宮里との対戦はなかったが、この時の縁もあって菊地は東北高校への進学を決めることになる。■2003年の女子ゴルフ・アマチュア旋風、それは9月のミヤギテレビ杯で最高潮に達する。説明するまでもなく宮里藍が東北高校3年でプロツアーに勝利した。宮里は翌週、アマチュアとして日本女子オープンに出場。大勢のギャラリーや殺到する取材陣の中プレー、連日プレスルームに呼ばれ取材に応じた。■2003年の日本女子オープンの優勝は服部道子。李知姫をプレーオフで制した。3位にTP(入会前)の上原彩子が入りツアープレヤー制度が話題になった。ローアマを目指した宮里は21位タイ。アマ4番目の成績だった。藍かさくらかで注目されたローアマは飯島茜。横峯は同スコアだったがプレーオフで敗れた。■そして、宮里は週が明け仙台に戻ると、東北高校で「プロ入り」宣言をする。校庭で行われたフォトセッションでは和田委世子ら同級生や後輩の原、有村らに囲まれ祝福された。■宮里がキャプテンをつとめた東北高校女子ゴルフ部は関舞、原江里菜、菊地、森桜子と続く世代が高校選手権(緑の甲子園)で5連覇を達成。地元開催のプロ大会でもロープ内外に東北高校生の姿があった。■2005年のミヤギテレビ杯はプロ2年目(ツアールーキー)の横峯さくらが逆転でツアー2勝目を上げる。この時、菊地絵理香(当時高2)は同じ組で回った。この組のもう一人は菊地にとって印象的な年でもある2003年の日本女子オープン覇者、服部道子だった。■優勝する横峯さくらと同組で回った2005年のミヤギテレビ杯、当時、東北高校2年だった菊地絵理香は結局、最終日にスコアを崩す。ベストアマも同スコアの金田久美子にプレーオフで敗れてしまう。因にこの年の表彰式、プレーオフ未決着でベストアマは出席していない。■2005年ミヤギテレビ杯、宮里以来のアマ優勝のチャンスがありながらベストアマも逃した菊地。翌06年の同大会には宮里がUSツアーから帰国2連勝する。トップ合格の有村智恵ら東北高校関係者が多数出場。菊地も意気込んでいたが最終日はロープの外だった。■このほぼ1ヶ月後、菊地はプロ入りを目指し1次予選受検。順調に最終テストに進んだが、2007年プロテスト(服部真夕トップ合格、若林舞衣子、一ノ瀬優希ら合格)は不運なロストボールなどもあり不合格。それでも2度目の受検は抜かりなくプロ入りを決めた。■藍&さくら旋風から10年、今年また女子ゴルフ界にアマ、ジュニア旋風が吹いている。宮里ルールとも言われた振興策を打ち出し若い才能をツアーの舞台に招き入れた樋口現相談役。10年たった今、樋口前会長がテレビ解説をする眼前で、宮里、さくら自身、そして彼女たちを追った選手たちの活躍が眩い。■韓国選手を筆頭にUSツアーを席巻するアジアンボーン。中でも菊地と同じ88年生まれの選手たちをパルパル世代と韓国では呼ぶらしい。朴セリの存在が多いに関係する。(朴セリは98全米女子OP、98,02,06全米女子プロ、01全英女子OP優勝ほか)。朴セリの同一年メジャー2勝の年に10歳だった子たちだ。■今年はミッチェル・ウィーが全米女子オープンで優勝。朴セリの影響を受けたパルパル世代(申ジエ、イ・ボミら)の活躍、そして藍&さくら以来のアマチュア旋風。2000年を挟んでゴルフを始めた私にとってはちょっとした「リバイバル」シーズンでもある。2003年、番組企画書に「北海道のミッシェル・ウィー、天才14歳ゴルフ少女」と書いて菊地絵理香の取材を画策した。初優勝したら、泣いちゃうかな、私が・・・!

劇的サンデー2014/10/19 17:29

ベストアマ、ローアマのプレーオフの話題をすることはなかったな、と反省。昨夜のブログ。