一方的な思い出&感慨/宮里藍選手2009/07/28 16:14

記者(リポーター)、コラムニスト、制作者など取材する者たちの多くは取材対象者によって育てられます。例えば競馬サークルを取材するターフライターの方の中には、ミスターシービーと出会っていなければ、ディープインパクトと同じ時代にいたから・・・などという人たちがいるはずです。■宮里藍選手の優勝に関して、優勝インタビューなどをする安藤幸代アナウンサーの感激にも思いを馳せました。なんと幸せなことでしょう。宮里藍選手はジャンルを越えたスーパースターですから、どのメディアにも宮里藍担当スタッフのような存在がいるはずです。担当替えや人事異動で今は直接、関わっていなくともこの10年以上の間、トーナメント会場はもちろん沖縄や仙台、アメリカに足を運び取材を積み重ねた人はどれほどの数だったのでしょうか。私が感じる安藤アナはフジテレビの熱意あるゴルフスタッフの象徴的な存在でもあります。アメリカ女子プロゴルフツアーの初めての優勝がフジテレビが中継した大会であったのも運命の粋な計らいだとさえ感じました。■私が仕事で、そしてプライベートでも、ゴルフと関わるようになったのは1997年ごろからでした。スポーツニュースやゴルフ番組で大きな役割を任されるようになっていく2000年頃を境にかなり深く傾倒していきました。フジテレビのスタッフ、関係者の方々にはひとかたならぬ、もうそれはそれは大変お世話になってきました。■中学生だった宮里藍選手がサントリーレディスで決勝ラウンドに進出したときも、ゴルフ中継の勉強のため当時会場だった兵庫県吉川町のジャパンメモリアルにいました。中学生の宮里選手のインタビューの受け答えの方が私の語り口よりよっぽど上手だと指南役の方にからかわれた記憶があります。■室蘭での日本女子オープンローアマを含め、それから数年はアマチュアながら存在感のある宮里選手の魅力を感じながらも、北海道の女子プロトーナメントを担当する私にとって宮里選手が直接的な取材対象になることはないだろうなと考えていました。但し、地元のジュニア選手の紹介やゴルフを題材にした企画を通すキーワードとして「ミッシェル・ウィー」や「宮里藍」を欠かさず盛り込みました。■2003年、宮里選手がアマチュアながらプロツアーで優勝した翌週、プロ宣言する直前、アマチュアとして最後に出場した日本女子オープン(千葉CC野田C)の会場で大勢のギャラリーや安藤アナら取材陣に囲まれている様子を見ました。といっても取材ではなく北海道・千歳の中学生でこの大会に出場した菊地選手のキャディとして、私も大会に「出場」していました。菊地選手は翌年には東北高校に進学することになります。■余談ですが、李知姫選手とのプレーオフを制し服部道子選手が優勝したこの年の日本女子オープンでは、横峯さくら選手と飯島茜選手がローアマを争い、当時中学生だった若林舞衣子選手、三塚優子選手も出場していました。後で知ったのですが石川遼選手もギャラリーの中にいたのだそうです。■宮里選手がプロ入りしたとなればどんな選手なのか、翌シーズンの予定はどうなのか・・・きちんと取材しないといけません。プロデビュー戦の2003年、伊藤園レディスは島袋選手や中島千尋選手の多彩な技やプレーに改めてトーナメントの面白さを感じました。そして、あまりにも多い宮里藍を追いかける人たちの数にも圧倒されました。安藤アナに宮里選手を紹介してと頼んだのですがそんな状況ではありませんでした。■2004年北海道のトーナメントに宮里選手は出場しました。雨の中の大変なコンディション。2日目は1番Tの2組のスタートだったが、悪天候で2時間の中断があったため、生放送の中継ホールにいたのは宮里藍選手と当時アマチュアの横峯さくら選手だったのです。宮里選手は最終日、18番でOBがありながら68をマークして3位タイと追い上げました。練習ラウンドの何ホールかを歩いて見ました。最終ホールでは最終日は右のバンカー越えを狙うと話していたように記憶しています。右バンカー方向はOB杭が浅く、傾斜もありました。リスクはありますが攻撃的な攻略ルートです。「狙い通り」だったのでしょう、但し、数ヤードの違いで傾斜で右に跳ねたものでした。その辺りの真意を聞きたいと思ったのですが、その後、宮里選手が訪れることなく、その会場での大会は終わってしまいました。■7月上旬に行われる北海道のトーナメント、全米女子オープンと時期が重なることが多く、プロ入り後宮里選手が私が担当するトーナメントに出場したのは今のところその時だけです。しかし、藍&さくらと同じ1985年生まれのゴルフ選手にスポットを当てた番組を企画し、2005年暮れに放送しました。2006年の9月の日本女子プロ選手やミヤギテレビダンロップ女子オープンはスポーツニュースのミニ特集の取材で会場を訪れました。今年のサントリーレディスでも直にプレーを見ることができました。直接的に取材するチャンスはなくなったのですが、常に大きな存在感であり続けたのは間違いありません。■密着をしているわけでもなく、親交があるわけでもないのですが、私自身も少しは成長させていただいているのかなと感じているのでした。■補足、2006年、全米女子プロで優勝争いを展開した宮里選手を取材するため急遽、渡米した安藤アナウンサーの代役を務めさせていただいたのは・・・。まあ、それは良いでしょう。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
長野五輪(1998年)のスキージャンプ個人ラージで日本のメダル獲得数は?半角数字1文字で答えて!

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://kondahomare.asablo.jp/blog/2009/07/28/4461270/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。